真宗大谷派 西照寺

ホーム > 雑文・文献・資料 > 報恩講法話「御本尊は寺の外から光を浴び、それを私は阿弥陀の光明として受け取る」

2014年11月24日 報恩講法話「御本尊は寺の外から光を浴び、それを私は阿弥陀の光明として受け取る」


画像


講師紹介 西照寺住職 星 研良
  今回の講師は岩手県釜石市の寶樹寺(ほうじゅじ)の住職、野嶋諭(のじまさとし)さんにお願いしました。
 昨年までは、報恩講で行き来しているお寺の住職に毎年順番にお話して頂きましたが、昨年で一巡しておりました。今年の初めから、さて今度の報恩講の講師は誰に来て貰おうか、と頭を悩ませておりました。そんな中で春頃にうちの門徒さんの実家のお宅の三回忌をすることになりました。このお宅は寶樹寺の門徒で被災しましたが、戸主一家は震災前から首都圏に住んでいたということでした。その方とメールでやりとりしている中で、寶樹寺の住職の野嶋さんという名前が出て来ました。私は寶樹寺の住職は渡邊さんのはずだったがと思い、野嶋という名前をはじめて目にしたのですがどこかに覚えがあった。
画像  そしてはたとこの冊子『共に育つ14号』を思い出しました。この冊子は新潟の曹洞宗の坊さんが二年に一度発行しているもので色々な宗教宗派の人が寄稿しています。縁あって私も一文を寄せました。14号には浄土真宗の人が三人寄稿しているのですが、その一人が私でもう一人が野嶋さんでした。冊子には寄稿者の短いプロフィールも載せられていて、私は西照寺住職と名告っていたのですが、野嶋さんの場合は、震災前に釜石に移住したとしか書いていない。ご本人の文章を読むと真宗の寺に住んでいることが書いてあるので、お西の人なのかなくらいに思っていた。それがこの法事をきっかけとしてその寺が寶樹寺であるとわかりました。そしてぜひ直接会って話をしてみたいと思い、7月の始めに釜石まで会いに出かけました。話をしてみると野嶋さんは在家出身の人で、大谷派の坊主になるまでの過程が面白く、また震災でも深い経験をされていました。釜石から帰って二週間ほどして、よし今年の報恩講は野嶋さんに話してもらおうとお願いしたところご快諾頂きました。
 それでは野嶋さんよろしくお願いします。

法話 寶樹寺住職 野嶋 諭
 ただいまご紹介いただきました野嶋と申します。皆さんにお会いするのは多分初めてだと思います。お会いしたことのある方いらっしゃいますか?おられませんね。皆さんからすると、お子さんやお孫さんの年代だと思います。自分の子供や孫はこんなふうに考えているのかなーと思いながらお聞きいただければと思います。
うまくお話しできるかわかりませんが、しばらくの間お付き合いのほど、よろしくお願いします。
 私はお寺の生れではなく、家は普通の仕事をしている、いわゆる在家です。それがなぜ親鸞に興味を持ったかというところからお話ししたいと思います。

画像  高校三年生の春、17歳ですが、人生には分岐点、分かれ道、節目というのがありまして、17、18歳というのはそれまで親や家族に育てられて、全部おんぶにだっこでわがまま生活していたところから、社会に出て、経済的にも精神的にも自立して、ひとり立ちしていかなければならない、そういう決意をしなければならない時だと思います。そういう時に、私の父親は、自分で仕事をしているのですが、当時の私が言ったことに対して、鷹揚に「そうしたらいい、やってみたら」とは言わないで、「そんなことできない。そんなに甘くない。」と言う人でした。どこの家でもそうだと思いますが、息子は学生で、若く、世間知らずで、何一つ経験があるわけでない。今は自分も子供ができて、親がそう言った気持ちも少しわかるようになりましたが、その時は、父親と自分は別の人間であって、やりもしないで無理だ、だめだというのは、簡単に「はい、そうですか」とは思えない。私は干支が寅年、ごうの寅らしいのですが、なかなか言われたことを「わかりました」とは言いません。何を言われてもほとんど聞きませんよ。(笑)
 そんなものですから、あるとき、期が熟して父親と面と向かって話し合うことになりました。
その時私は「もう言うことは聞きません。自分の思うようにやる。それがだめだというのであれば、家も出て、高校もやめて、どこぞへ行って自分で生活する」と面と向かって言葉にして言ったのです。
 すると、その言葉を言っているその自分の身体の中で、それまで想像したことのない大きな深い親の庇護、愛情、努力の中で育てられてきたのだ、という、言葉と気持ちが湧き上がってきました。それがものすごい、なんていえばいいのか、体がガタガタガタと震える、そうして歓びが噴出してくるんです。後にも先にも経験したことのないことでした。それから1週間ほどそんな状態が続きました。
 しかしそのことは親には一言も言いませんでしたので、親から見れば逆らった息子のままです。おそらく父は今でも私がそういう外面と内面が全く正反対の状態にあったことは気付いていないと思います。
 先日ノーベル賞が発表されて、日本人の方3名が受賞されましたが、その時、高校生の私の世間知らずの少年の思いだけれども、いま自分が経験しているこのことは、間違いなくノーベル賞に値する、と確信したことを懐かしく思い出します。それほど自分と世界の関係が根本から変わるような出来事でした。さて皆さん、もらえるかどうか、たのしみに見ていてください(笑)。
 そういうことがありましたが、結局、熱が冷めるように私は家の中にうまく留まって、高校もやめずに大学に入ることになりました。これは父ではなく、お母さんのおかげです。

 その頃ちょっと流行った言葉で「浮遊感」というものがあります。自分がここにいるのだけれども、ぷかぷか浮いていて足も地に付いていない、そういう感覚が自分の中にあって、それが大学に行っても続いていました。大学生というのは仕事をしなくても仕送りが来る。僕は煙草も酒もやりませんでしたが盛大にやっている人もいる。苦労しなくてもいいのです。皆さん若い時はおそらくご苦労されましたよね。僕は昭和49年生れで第2次ベビーブームの世代ですが、あまり苦労ということを知りません。その分弱いと思います。弱いのはおそらく親としてそんな育て方をした皆さんの世代のせいです。(一同笑)

画像  しかしずっとそういう状況は続きません。大学を卒業しなければならない。その時に指導教官になってくれた先生がいました。石川に暁烏敏(あけがらすはや)という明治生れの浄土真宗の坊さんがいたのですが、この指導教官のお父さんが在家の人でしたけれども暁烏先生のお寺に出入りしておられました。在家でありながら外陣(げじん)で出仕をされるようなお父さんだったそうです。その息子さんの指導教官に僕はまだ仕事をしても埒があきそうにない、もう少し勉強したいと、ああでもないこうでもないと言っていたのですが、君のような関心の人は大谷大学の大学院に行ったらよかろうと言われました。
 大谷大学は皆さんご存知と思いますが東本願寺の大学です。昔は仏教学という学問では東京大学、京都大学、大谷大学と並べて言われた時代もありました。今は、東大や京大と肩を並べるレベルではなくなって見る影もなく、坊さんの養成学校になってしまいました。
画像  そういうところに行くのはどうかと思ったのですが、その先生が強く勧めるのです。僕が行くことを決めたのは鈴木大拙(すずきだいせつ)という、世界に禅を広めた学者がおられたのですが、その鈴木大拙が一時、大谷大学の学長を務めていた、そして仏教学の講義をしておられた。その時の生徒さんが何人かまだ大谷大学で教授をしておられた。そういう人々が多少いるのであればいいことがあるかもしれない、という図々しい気持ちで大谷大学に行くことにしました。

 行ってみてお寺生れの人達と縁ができましたが、お寺さんというのは独特な性質というか――そう思いませんか?(笑)。良いか悪いかわかりませんが非常に独特です。お寺さんの息子らしい人達が沢山居て僕はついていけないな、と思いながら過ごしました。
 担当の教授からは「お前、お寺に入るんだったら探してやる。お寺に入りたくないなら布教師という仕事があるからその仕事に就いたらどうか」という勧めを受けたのですが、ちょっとこの人達とはあまり仲良くなりたくありません(笑)と言って断わりました。

 一方で美術関係が好きだったので、京都の個人美術館に就職しました。そこで十年ほど仕事をしました。そうしながら、仏教の教団とかお寺というものには関心はなかったのですが、仏教の教えや生き方や表現には関心がありました。仏教の信心を頂いた人はそれを表現として出すのです。皆さんもいいものを頂いたらおすそわけするでしょう。すごくいいものをもらうと嬉しくて人に言いたくなる。仏教の信心もそれと同じで、信心を頂くと周りの人にそれを言いたくなる。信心をおすそわけしたくなる。
 そういう人の典型に青森出身の棟方志功という方がおられます。この人は僕の実家の近くのお寺に疎開してそこで南無阿弥陀仏を頂いたという方です。棟方志功という一人の絵描きが考えて描く作品以上の大きなものが南無阿弥陀仏と称えそこに日々生かされることで画面に表われてくる。その画面に出て来たものについては棟方志功という「私」は一切責任が持てない、というか責任の持ちようがない。「私」から出てきたのではなくもっと大きなものが表われてきたわけですから。そういう棟方志功のような人になりたいと思った時期もありました。そういうことを皆さんにお勧めしたり、説明したり共有したりできないか、と段々と考えるようになりました。

 仕事をしながら個人のサークル――サークルというと最近話題の○○教みたいですが――京都、大阪、奈良の辺りにはそういう聞法道場のようなものが未だに少し残っていて、お寺ではなく在家の人が自宅を開放して、講師を呼んで話を聞いたり、みんなで経典や本を輪読したりという会があります、そういう会の二、三に参加しました。そういう会の中で仕事や日常生活であったやるせないこととかの話が出たりもしました。
 そうこうするうちに、縁が満ちるというか、願いが満ちるというか、コップがあるとするとだんだん貯まってきて、いつかそこからあふれる。あふれるとどうなるかというと、新しい何かが開けてくる。

画像  そして私にとって開けたものが一つは清沢満之(きよざわまんし)です。清沢満之の名前は聞いていたのですが・・・清沢満之を知ってます?・・・星さんは清沢満之についてはなかなかの人なんです(一同笑)。
 この清沢満之の本を現代語に訳した人に今村仁司(いまむらひとし)という東京経済大学の教授がいらっしゃいました。もう亡くなりましたが。この人の本に出会ったり、清沢満之の周辺の方――清沢の直門の弟子のさらに弟子の人達の何人かにお会いして、教えを請うたというか話をしました。その中で印象的だったのが、それまで私が付き合ったお寺のあり方とは全く違って、仏教は食べるためにするものではないというのです。また、生きるということは食べるために生きるのでないのだ、というのです。仏教を聞くために私達は生れてきたのだ、というのです。
 そういうことはたまに話には聞くのですが、実際に生活している人が言う。そういう人達が本当にいるということに大変驚きました。僕の知っているそういう人達は三,四人ですが。この人達は一口に言うと貧しく立派な生活はしていません。そこに伺うとなにがしか物をくれるのです。その生活の様相というものが全然重苦しくない。すごく軽いのです。先ほど言った浮遊感というのも軽いのですが、これは地に足が付いていない軽さです。しかし、清沢満之の系統の信心を頂いた人の生活はなんとも言えず心地が良い。これこそ自分のしたかった生活ではないか、と思いました。そういうところから周囲を見渡すと僕の関係していた芸術方面の人でも同じ生活をしている方がおられて、僕もそういうものを求めていると話すとすっと入れてくれるのです。これがとても有り難い、すごいことです――ちょっと具体的な話ができませんが。

 そんな清沢満之関係の人々の出会いがあって、そのサークルに来ていた人々の中の一人が、今僕が住職を務めている寶樹寺の前の住職の次男のお嫁さんでした。その人が言うには「今実家のお寺はお婆さんが一人で住職をやっているが、先が心配だ。あんたはしばらくしたら交代ということで寺に入ってくれないか。」と言われました。僕はその時は坊さんには決してなるまいと思っていたから僧籍は持っていませんでした――持ってるとすぐ引っ張られるじゃないですか(一同笑)。しかし、そういうことだったら、僧籍――教師資格といいます――が取れたらそちらに行きます、と答えそれから教師資格を取る勉強をはじめました。そして試験を受けて見事に通りました。これもまたお母さんのお陰です(一同笑)。そうして釜石に行くことになりました。
 釜石というところは文化的水準の高いところではないです。昔は製鉄所が凄くて水産業が盛んでした。いい時には札束が舞っていたということです。そういう街の中心に寺は建っています。寺の建物は昭和38年に建てたものですが当時としては画期的な鉄筋コンクリートの斬新な設計でした。すごく羽振りが良いというか勢いがあった。しかし勢いはあったけれども落ち着いてみんなで意見を交わしたりという雰囲気ではなかったのではないでしょうか。

画像  そういう過去のあるお寺に行ったので、最初は正直言って困ったなと思いました。そんな中で寺にあった本を漁っていたら、無限のマーク∞が付いた冊子(無限洞会報)が目に入りました。全部は揃っていなくて3冊しか見つからなかったのですがこれが仙台で出しているものだと分かった。そういえば、大学の時の先生が仙台は教学に関心が高いところだ、教研(教学研究所)を持っているのは金沢と仙台ともう一箇所・・・どこでしたかね――星応答「久留米かな」――ああ、そうかもしれませんね。
 お勤めをするのはどこでも皆さん熱心なのですが、教えを聞く――言葉を噛み砕いて頂いていくということは難しい。しかし仙台にはそういうことに関心のある人がいるから、その人達と関わりなさいということを大学の先生が仰っていたのを思い出した。ああこれがその冊子かということで、ざっと読んで目についていたのが星さん――こちらの御住職の文章でした。こういう人がいるのだったらいつかそのうち向こうから来るだろうと思っていたら(一同笑)、今年の夏まんまと(一同笑)寶樹寺にいらっしゃいました。
 それはこの『共に育つ』に書いたこともひとつのご縁になったのです。この『共に育つ』を発行している櫛谷宗則(くしやしゅうそく)さんは、曹洞宗の坐禅をする方なのですが、榎本栄一(えのもとえいいち)さんなどとも交わり坐禅をしながら念仏の教えを共有するという人で、宗派の中に止まらず一緒のものは共有しましょうという姿勢の人で、その人の発行する冊子の中に星さんの名前が出ていて、これは会うのは間近だなと思ったのを憶えています。


 釜石に移って11ヶ月と3日目か4日目くらいで震災に襲われました。それまでは僕もこう見えても苦労をそれなりにしたつもりでいました。人よりも少しは苦労したし少しは頑張った。そうしてお寺に入った。寺に来て話の場があったり、よそで話の場があったりして、今度の住職はそれなりの人物だと思われていると、思っていました。地震がくるまでは。
 地震では僕がやってきた苦労よりも全然桁違いの苦労やひどい目に周りの人全員が遭ってしまった。そうすると仏教とか法話とかいうものが僕の中で成り立たなくなってしまった。皆さんの中にも大なり小なり被災された方いらっしゃいますよね。福島原発の問題もありますし。そういうとんでもないどうしようもない現実が――いくらか皆さんも浮遊していたというところがあると思うのですが――浮遊している中に立ち現れてきてしまった。これをどう受け止めていくかということが、震災後の私達の課題ではなかろうかと思います。
 私達の生活というものは、どの程度自分でしていると皆さんはお考えですか。自分で働いて家を建てて家族を養ってお金であったりお金でなかったり色々な努力をして私達は生活をしているのですが、それらが自分が思っている以上にささやかなことでしかなかったということが、今回の地震で現れてきた私達の事実ではないかと思います。

「暗愚(あんぐ)」――暁烏先生の『我が歎異抄』の中に「私達はなんと暗く愚かな者であったか」という言葉がたびたび出てきます。これは自分達は自力で生きていると思い込んで、現代の科学文明を謳歌してどんどん生活が便利になって子供も孫もこの調子で順調に育っていくだろうと思っているそのこと自体が、実は暗くて愚かなことであるという面を持っているのです。この暗愚は残念ながら消せません。
 僕は地震の時に地面の下に本当のもののけが住んでいて、そいつが怒ったら私達が作ってきたものは全部無くなってしまう、だからちょっとでも怒らせてはいけない、と感じました。だから昔はそのものに生け贄を捧げるとか、年に一遍盛大に何かをするとか、そういうことでそのものを治めようとしていた。それが私達の恐れに対する行いでした。報恩講はそういうものではありませんが、皆さんの中にはそういう気持ちで来ておられる方がいるかもしれません。しかし、そういう行いをしても治まらないものが「本当のこと」です。
 私達は暗く愚かな何かを背負ってここにいるわけです。仏壇の本尊の掛軸を外して裏を見ると「方便法身尊形(ほうべんほっしんそんぎょう)」と書いてあります。「嘘も方便」というと大谷派の先生は違うという人もおりますが、やはり嘘も方便なのです。形にならないものを掛軸の本尊の像で表わしたということです。ここの本堂の本尊、自宅の仏壇の本尊の前で手を合わすとき、本尊が尊いのはもちろんですが、その本尊をそのような形にしてくださった全ての縁が尊いというのが、本当です。その本尊に対して私達が手を合わせられることが、唯一暗愚でない行いです。それが浄土真宗の教えです。通じましたかね(一同笑)、難しいですね。

 はじめに三のときにすごく大きな喜びを経験した話をしました。その後大学のときに親鸞の主著の教行信証という本を読みました。僕は感覚的な人間なので、内容よりも字を読んでいくとあるリズムが出てきます。教行信証も一種の方便法身であって言葉となった大きなはたらきがそこに現れている、と受け取りました。そこに親鸞が頂いたであろう大きなものが文字の後ろにある、そのものと私が三の時に経験した感覚がぴったり合いました。なるほどこれが方便法身か、と自分なりに納得しました。そのことを何とか色々な人に伝えたいと思い、今日もこうして話しています。

 この中で被災をされた方に手を挙げてもらうというのはどうでしょうか。

星 挙げられる人がいれば挙げるでしょうが、期待できないと思う。
水戸 建物の瓦や壁はやられたが、津波の被害のような深刻なものはない。

ああそうですか・・・。どういう風にしたらいいかな・・・考えてきたことがうまくいかないですね、なんでですかね(一同笑)。前はこんな風じゃなかったのですが・・・・

 ちょっと話が変わって聞こえるかもしれませんが、星さんがこの間の夏に来られたときに、お寺とお金の関係というものを少しお話しました。お金というものは仕事をしたら貰えるという感覚があります。前の仕事は美術館だったので給料を貰っていました。美術品の価値はお金で一応計ることができます。しかしお金で計っているうちは美術品の価値は解らないと教わりました。美術品に付いているプレートにはタイトルと作家名と裏側に値段が付いています。その値段も含めてそのものの名前だと教わりました。
 南無阿弥陀仏は名号(名前)です。この名号一つで淨土に行けるというのですが、皆さんなかなかそうは思えないでしょう。例えばピカソの絵が100億円するとします。その100億円の根拠は何かというと、何もありません。その100億円が似合うかどうか、それだけのことです。似合うかどうか、なんですねぇ・・・・(一同笑)。ちょっとうまく言えませんね、なんでだろう。(一同笑)・・・・・


星 ちょっと対論しましょうか。

そうですね。(一同笑)

星 私は野嶋さんの話を聞いていて、すごく気持ちが分かります。野嶋さんの考えていることはだいたい分かるのだけれど、どう言葉にしていいか悩む、それは私もいつも感じていることですが。 
 ちょっと私の親父が亡くなったことに関してお金の話をしましょう。亡くなったのが9日で、12、13日と密葬をして普通の人であればそれで葬式は終りです。ところがお寺という特殊な所の前住職が亡くなると本葬というものをやらなければならない。昔は何でこんなくだらないことをするのかと思ってました(笑)。しかし形は重要なのですね。今日もそうですが、報恩講ということで綺麗に飾りたてている。それは単に形だけだというのでなく、形が実は中身を表わしている。形で表わさないと中身は現れない。実はお金もそういうものでないかと思います。
 28日に行う親父の本葬の予算が葬儀屋さんから出ているのですがお金がかかります。ここまでかける必要があるのかとつくづく思う、お金が惜しいなというのが半分、しかし、いやお金というものはそういうものだ、と思って掛けることにしました。特に何に掛かるかというと外にテントを張ってモニタを置いて中の様子を映してといったことにかかる金額が大変なのです。そうなると、それだけのお金を掛けて期待したとおり人が入ってくれるか、テントが一杯になったらお金を掛けた価値があったと納得するでしょうが、多分それほどは入らないだろうという読みが自分にはあります。ならば、そういうものがいらないとして済むかと、私は親父が亡くなってからずっと考えていました。そしてそれでは済まないな、と思いテントやモニタにお金を掛けることにしました。しばらく前の私であれはこんな風には思わなかったでしょう。しかし今はお金はそういうものの媒体なのだと思います。自分はそうしてお金を捨てる――捨てるんですね、そうして何を表わそうとしているのかな、ということです。これに近いようなことを野嶋さんは言おうとされているのではないか。


そうです、すいません、ありがとうございます。(一同笑)
 僕の中で喋らない方が良いということと、喋った方が良いということが最近うまく整理できないのですが、自慢話に聞こえたら申し訳ないのですがそうはならないように注意して喋ります。
 地震のとき、周りの人々は多くが僕より年上で、そういう人々が家を流されたり、ものが無くなったりしている。そういう人々に必要なものを届けるという役割をしていました。そうしていると、仏縁という言葉がありますが、仏縁は限りがないのですね。その仏縁が繋がって何百人分の食料とか下着とかが集まって僕の背中を押すようになりました。そういうものを毎日届ける。その結果を物資を送ってくれた人に伝える。そういう働きをしていましたら、自分というふわふわしていたものが、何か大きいものに繋がっていて、それに動かされるのが半分、自分が頑張るのが半分、それでちょうどバランスがとれて自分の役割とはこういうものだったと実感しました。

 うちの寺は地震で半壊になり庫裡は地盤が下がり建具の半分は開かなくなりました。それを直さなければならなかったのですが、門徒さんの半数以上が仮設住宅に入られた。家を直さなければならないのは寺だけではない。僕は寺は頂いたもので生活させてもらう所だから、そんな状況の門徒さんに寄付を募って寺を建て直したくはないと震災後ずっと思っておりました。
 それよりももっと前向きに、寺にあったお金を被災した人に配ってしまおうと考えました。まだ公的な見舞金がどんどん積みあがっているのに、配り方や金額が決まらず、ぐずぐずしていたときです。寺の積立金がありましたので、とりあえず500万円は被災したご門徒に配りたいと役員会に諮りました。すると同朋会としても100万円出そうということになり、合計600万円を均等割りしてみなさんに配って回りました。
そういう考えと行いを震災後に僕の繋がりのある人に言ったら、次々にお金が来てしまったのです。(一同笑)
 これには本当に驚きました。そうしてお金が来てみると、頂いたものは必要なところに渡さないといけない、と改めて思いました。とはいっても、等分すれば一軒あたりわずかなものです。そうして手渡してみると、それが私にとってはただのお金や物でなく、すごく意味のあることのように感じられたのです。そういうことを星さんの話で思い出しました。

 そうして配っていると、仏壇が流された、法名軸が流されたといった話がどんどん出てくるようになった。お寺の財布にも限りがあるのですが、そう言ってくる人に対しては、躊躇しないで対応した。その様子を周りの人は見ていて、お寺から出て行くお金に上乗せしてまた送ってくださる。そういう不思議なことがあって、これこそ方便法身の働きではないか、暗い愚かなこの世の中に、こんな明るい道が拓けてくるのだな、と経験させてもらいました。
 佛の光は本尊から放たれると言われますが、お寺の外側に光があって、その光にお寺が照らされて佛の光を頂くことができるのではないかと思います。そう思って、今度の本堂の改装では全部透明ガラスにして外から中が見えるようにしました。お寺は維持する皆さんあってのものですが、今回の修復は有り金全部ばらまいて、よそからさらに貰ってそれでどうにか出来てしまった。そういうことがあったので、役員会にも諮ってルールを決めてお寺を誰でも使えるものにしようということで、開放するようにしました。

 そうしたら今年の春、アメリカのアカデミー賞にノミネートされたヴィック・ムニーズという現代のピカソと言われる方が来て上映会をしたり、この間はベルリンフィルの元メンバーだった人が、釜石で被災者と音楽を作りたいということで、うちの寺を拠点にして一ヶ月程レッスンをして発表会をするとか、一昨日も仙台フィルのメンバーの方がピアノとチェロとバイオリンの三重奏のコンサートをされました。

 そういうことが、お寺を開く――全部出してしまう――と、入ってくるのですね。いいですよというと向こうから勝手に来るのです。いつまで来るのかは誰にも保証できないですが。それがちょっとこわいところではあります(笑)。そういうことを僕は日々実験的にやっています。お寺を開き、自分を開き、財布の口も開いてしまって(一同笑)、そばにいる人は危ないなと見ている人もいると思いますが、共鳴される方もかなりおられます。そういうことが日本の中で新しい流れになるのではないか。
今度は南海トラフの震災が起ると言われていますが、その時にこういうことがきっと力になると思います。


 お念仏についてですが、念仏というと分かりにくいですが、覚りを開くと言いますよね、覚りを閉じるとは言わない。覚りは「開く」のです。仏さんに仏華を飾りますが、華も開くものです。うちの寺の玄関には「華開見佛」という額が掛けてあります。華が開いて佛を見る。開いた時にしか仏さんは見られない、仏さんの方はいつも開いているのですが、私達の方が閉じたり開いたりしている。閉じているときには、暗く愚かなのか明るいのか分からない。開いたときにはじめて自分達が暗く愚かだったということが分かる、そして、ああここに仏さんがいらっしゃったということを少しの間だけ頂くことができる、それが華開きて佛を見るということでしょうし、またお念仏の信心を頂くということになるのでないか。それを、私は証明するというと変な言い方ですが、お寺に居ながら日々実験しているところです。今後どんな活動になるか分かりませんが、ご縁がありましたら釜石の寺にお出でください。今日はまとまらない話で申し訳ありませんでした。ありがとうございました。


星 ありがとうございました。野嶋さんの話しぶりは、私とはタイプが全然違っていて、何かいいですね。教行信証のリズムに一致したというところがすごく良かったです。

 

トップ

雑文・文献・資料

本サイト運用者(住職)の文章などの整理棚。

月例学習会(同朋の会)

大乗を心得る(その2) 念仏の心境 2019/02/20
大乗を心得る(その1) 空と浄土 2019/01/25
正信偈解説・道綽の段 2018/05/26
正信偈解説・曇鸞の段 2018/04/21
第4回 落語会 2017/07/09
しっくりこない中の驚き 2017/05/13
凡夫・光・往生極楽 2017/02/26
第3回 落語会 2016/09/10
善悪凡夫vs悪衆生 2016/06/21
第2回 落語会 2016/05/22
往って還る 2016/04/23
煩悩を断たずに涅槃を得る 2016/01/24
本願 2015/12/23
落語会 2015/07/20
現代からたどる大谷派史3「同朋会運動と西照寺」 2015/07/08
現代からたどる大谷派史2「清沢満之の話」 2015/06/06
現代からたどる大谷派史1「戦争との関わり」 2015/04/20
映画「happy しあわせを探すあなたへ」鑑賞会 2015/03/02
立川談志の生死観 2015/01/19
三つの宗派の儀式を並べてみる 2014/10/21
お盆の迎え方 2014/08/01
葬式の段取り 2014/07/31
遺骨の落ち着き場所 2014/06/19
「箸渡し」について 2014/05/18
生まれ変わることの重さ・恐ろしさ 2014/03/03
墓所と犬猫と仏飯の話 2014/02/19
出家の功徳 2014/01/06

仏教の歴史 2015/12/23

一般的

2018/09/22秋彼岸会法話「私が瞑想をはじめたわけ」(原稿) 2022/09/27
2018/11/25報恩講法話「僧侶になって」 2019/02/03
2018/09/23秋彼岸会法話「諸仏のいるところ」 2018/10/04
2018/03/21春彼岸会法話「曇鸞和讃のひとコマ」 2018/03/25
2017/11/26報恩講法話「原発事故後六年八ヶ月」 2018/10/04
2017/09/23秋彼岸会法話「向こうから在る――阿弥陀経」 2017/09/27
2017/03/20春彼岸会法話「痛みと平生業成」 2017/04/13
2016/11/27報恩講法話「坐るなかに抱かれて」 2017/01/25
春彼岸会法話「老いの功徳」 2016/03/22
秋彼岸会法話「自然というは、はじめてはからわざるこころなり」 2015/09/23
春彼岸会法話「罪と業」 2015/03/21
報恩講法話「御本尊は寺の外から光を浴び、それを私は阿弥陀の光明として受け取る」 2014/12/17
秋彼岸会法話「お経を読み隊の報告」 2014/09/25
春彼岸会法話「在り方二つ」 2014/03/21
秋彼岸会法話「立ち止まって考える」 2013/10/11
春彼岸会法話「放射能の時間、仏の時間」 2013/03/25
秋彼岸会法話「「念仏する」ということの整理」 2012/09/24
内部被曝を理解する 2012/03/28
西安寺報恩講法話「仏教は世界をどのようにとらえるのか」 2011/11/17
秋彼岸会法話「震災後六ヶ月雑感」 2010/09/23
秋彼岸会法話「葬式と金」 2010/09/23
前住職の三ヶ月海軍記 2010/07/29
春彼岸会法話 2010/03/21
09/09/23アンケート結果
秋彼岸会法話 2009/09/23
春彼岸会法話 2009/03/20
紛れ廻ると・・・ 2008/08/25
眼と色とによって触を生ず 2008/01/25
コーヒー豆焙煎器・加湿器 2008/01/13
心と体と物 2007/08/30

専門的

随想2 輪廻の検討 2018/03/20
随想1 生命が先か経が先か 2018/02/10
東北大学宗教学研究会「寺が直面する存亡の危機と妙光寺25年の試み」 2015/06/16
東北大学シンポジウム「寺院と現代社会」 2015/06/12
清沢満之『道徳教育について』意訳 2010/09/26
清沢満之をめぐる経済について 2010/05/23
清沢満之『宗教哲学骸骨講義』意訳 2010/01/10
清沢・西洋哲学史講義『ヘーゲル』意訳 2009/11/07
清沢・西洋哲学史講義『カント』意訳 2009/07/10
清沢満之『純正哲学』意訳 2009/05/13
岩波版清沢満之全集目次一覧 2009/01/18
岩波版清沢満之全集年齢順一覧 2009/01/18
縁起 2008/07/17
仏教的世界把握の図解 2008/05/19

仏教史年表 随時更新

 (C)西照寺 2007年来